イジメっていうのは日本だけでなく世界中の学校で起きていることであり、この問題が完全に消えることはない。
しかし、100のイジメを90に減らすことはできる。
今回は、私が過去に受けたイジメを語ったうえで、イジメを経験して感じたこと、またイジメ解決に向けて周囲の大人たちがすべきことなどを語っていく。
イジメを受けた経緯
私が初めてイジメを受けたのは中2の時。
私が根暗で弱そうに見えたのだろう。中学生の私は身長もクラスでも特に低かった。
そしてクラスのリーダー的存在であるバスケ部の男と、その腰巾着のような帰宅部の男によってイジメが始まった。
ちなみにその2人とは、それまで特に接点はなかった。
ただ同じクラスになっただけ。
イジメが起こるキッカケなど些細なことなのだ。
○暴力
私はまず暴力によるいじめを受けた。
先生がいない時は結構されており、すれ違いざまに腹パン、
休み時間に、唐突に後ろから腹パン、急に後ろから思いっきり蹴られたり、張り倒されたり。
特に忘れられないのが、合唱コンクールの練習でクラスで練習している時に、急に後ろから思いっきり股間を蹴られたことがある。
今なら笑い話にできるが、その時の痛みは半端じゃなかった。
○言葉
そして言葉の暴力もウケた。
言葉の暴力と言っても、それらは全て小学生レベルのもの。
ブス、陰キャ、ゴミ、クソ、カスなどです。
今思えば「この程度か」としか思いませんが、中学生の私はかなりメンタルが弱っていたので、こんな幼稚な暴言を吐かれただけでも、自分のすべてを否定されてきたようで本当に苦しかった。
「本当にブスなのかな…」とか「俺はゴミだよな…」とか本気で思い込んでおり、ここで私の自己肯定感は大きく削がれたのだと思う。
あとは、
バスケ部で身体がバカでかいクラスメイトを背負って、他教室まで運ぶとか、
自分の机においていたプリントを勝手に取られて、そのまま先生に提出できずに終わったり、
修学旅行のレク大会で踊らされそうになったり。
(ちなみにその修学旅行のレク大会では、イジメっ子達に無理やり踊らされ、晒し者にされた人が2人いた。そしてその内の1人は修学旅行後に不登校になり、学年が変わるまで1度も学校に来る事はなかった。)
パニック障害になったのも、このイジメのせいなのかもしれない。
身体への暴力はいずれ治るが、心の傷というのは一生消えない。
私は今でもいじめられていた時の光景を鮮明に思い出せる。
この記事を書いている今も、思い出して身体が震える。
○イジメの境界線
これを見て「なんだこの程度か」とか思う人もいるかもしれない。
私も今思えば「こんなことで悩んでいたのか」と思える。
しかし程度の差こそあれ、被害者が苦しんでいる以上、それはもうイジメなのだ。
イジメの境界線というのは、明確な基準というのは残念ながらない。
被害者が「これはイジメだ。」と認識したらそれはイジメとして成り立つ。
逆に、双方に適切な信頼関係が築かれており、その上でじゃれ合ったりするのは、
第三者からみたらイジメに見えても、当人たちは適切な信頼関係が築かれているのでイジメではないのかもしれない。
しかし、私の場合は、以上のような暴力や言葉が冗談として済まされるほど、私と加害者の間に信頼関係は築かれていない。
だから私はこれはイジメだと認識できた。
しかし、イジメが日常化すると、本人も「これが当たり前なんだ。」という感覚に陥り、今受けているイジメに対して何の対処もしなくなる。
人は環境に適応していくようにできている生物だからだ。
だからこそ、イジメというのは、第三者からみても、本人も気づきにくい、厄介な問題なのだ。
反撃
私はとあることがキッカケでイジメがパッタリとなくなった。
私は、中学2年の終わりの1月ごろ、イジメっ子に反撃をしたのだ。
さっきも述べましたが、合唱コンクールの練習の時に股間を蹴られた後だ。
私はその時なぜか、唐突に怒りがとんでもなく湧き出した。
いつも殴られたり蹴られたりしてた時は、特に怒りの感情は湧いてこなかった。
しかし、その時はなぜか湧いてきたのだ。今まで抑え込んでいた感情が爆発したのだろう。
あまりにもブチギレた私は、合唱の練習が終わってみんなが下校しようとした頃に反撃を仕掛けます。
その股間を蹴った犯人(帰宅部の方)の所へ行き、胸ぐらを掴んで机に押し倒し、蹴りを数発入れました。
すると、彼はバックを持って逃げようとしたので、私も下校の準備をしてソイツを追いかけた。
完全に我を忘れていたので、学校の外まで追いかけ回して捕まえて、殴るけるという行為でボコボコにしてしまった。
凄く泣きそうな顔で逃げられていたのを覚えている。
「争いは同レベルの人間同士でしか起こらない」という言葉がありますが、”制裁”を加えるという意味では、私の反撃はしてよかったと思う。
その日以来、パッタリイジメはなくなり、周りからの印象も変わったように感じた。
暴力に対して暴力で報復するのは、後悔が残る
なんか武勇伝を語っているようで自分がキモく感じてきたのでここらで終わるが、私はここで「イジメに対しては逃げずに、ボコボコにしてやれ!立ち向かえ!」と言いたいのではない。
イジメをなくす方法は、「逃げる」か「立ち向かう」かの2つがあるが、今になって思えば、前者を選んだほうが、私にとってもいじめっ子側にとっても精神的な傷はつかずに終わったと思う。
なぜなら「立ち向かう」というのは非常にリスキーで、たとえ反撃をしてその時は爽快感が合ったとしても、あとから後悔することになる。
「反撃してイジメはなくなったけど、俺はいじめっ子と同じことをしてしまったな」という後悔が、私は今でも残っている。
私の場合は立ち向かって偶然成功したが、どんなに憎んでいる人間に対してであろうと、暴力を振るうのはやはり幼稚で醜い行為だし、
自分の心の中にもわだかまりがずっと残るのでやらない方がいい。
それではイジメの連鎖は止まらない。
世の中は不平等
私はイジメを通して、世の中には平等というものは存在しないのだなと感じた。
子供の頃は「やれば何にでもなれる」とか「努力は必ず報われる」という幻想を抱いていた。
どれだけ性根が腐っていようとも、うまくいく人間はうまくいくし、失敗する人間はどうやっても失敗する。
私をイジメていた人間が、推薦でバスケの名門校に受かった時は特に感じた。
そんな不条理な世界で私たち人間は生きていかなければならないのだなぁ、と身をもって学んだと同時に、この世界に対して絶望感を抱いた。
弱い人間の気持ちが理解できるようになった。
また、イジメによて苦しい気持ち、痛みを感じることによって、私のような同じ弱者の痛みというか、気持ちが少しは理解できるようになりました。
私は中学生の時は厨二病をこじらせていたこともあり、
怒りっぽくて攻撃的な性格で、気に入らないとすぐに八つ当たりしたり周りを不快な思いにさせるという性格でした(だからいじめられたのカモ…)。
しかし、世の中には性格の悪い人、頭が悪い人、身体が不自由な人、そして過去の私のようにイジメを受けている人、沢山の人がいる。
学校はまさに、性格、家庭環境、好きなもの、嫌いなものがすべて異なる子どもが同じ教室に押し込められて、共同生活をしていかなければならない場所だ。
それを理解することで、人と接する時に思いやりを持って、感情的にならずに相手の立場を理解して話せるようになりました。
この「生きづらさ克服ブログ」でも、なるべく読者の傷ついた心に寄り添えるような思いで記事を書いている。
学校は弱肉強食の世界
ハッキリ言って、学校という環境はクソだ。
まだ精神的に成熟していないクソガキ共が統べる王国、それが学校。
彼らは弱い人間を支配し、攻撃する。
しかも妙にずる賢いので、教師の手の届かない所で攻撃するので、大人は無力だ。
最近では、学生がイジメで自殺をしたりすることも増え、教師もイジメに対して目を光らせているが、あまりイジメ解決において教師は役に立たないと思っています。
学校とはまるで野生のジャングルのような環境です。
自分で生き延びる知恵と力を身につけなければ、学校というジャングルで生き延びる事は不可能です。
これは人生においても一緒でしょう。
人生を楽しむ為の知恵と力がないと、幸福になる事はできない。
学校はまさに社会の縮図。
あと「あぁ、私は社会不適合者なんだ。」と学べる良い経験になりました。
(小中高と、学校という社会に適応できたことがありませんので…。)
イジメの加害者は、被害者でもある
先に言っておくと、私はイジメをしている人はクソだと思っている。
イジメを肯定する気は1ミリもない。全否定する。
その上で言うが、イジメをしている加害者は、被害者でもあるのだ。
イジメをしている人というのは、総じて精神的に問題を抱えている。
その原因は様々です。家庭環境や過去のトラウマなど、本人にしか原因はわからない。
なので、加害者も何かしら過去に辛いことがあったり精神的に問題を抱えていることは、本人も気づいていない。
「誰かを傷つける」という行為を無意識にやっている時点で、イジメの加害者の精神状態も異常なのだ。
そういう意味ではイジメの加害者は、被害者でもあると言える。
だから、イジメはいじめる側にもイジメられる側にとっても、何の得もない、むしろ損しか産まない悲惨なことなのだ。
まとめ:イジメからは逃げるのが一番
イジメに関する議論で必ず出てくる「イジメられる側にも原因がある」という意見。
私はこの言葉は真理だと思います。
殺人にしても、殺される側にも何かしら殺される理由がある場合があります(根っからのシリアルキラーやサイコパスは除く)。
しかしそれは、だからといってそれはイジメられていい理由にはならない。イジメを正当化していい理由にはならない。
また、イジメている方が悪いとかイジメられてる方が悪いとか、社会が悪いとか学校が悪いとか、そういった責任の押し付け合いは無意味。
そしてイジメをできるだけ減らすためにはどうするべきか、という話になるが、
これは、大人たちがイジメが起こらない仕組みづくりに注力するのではなく、
ただ子どもがいじめられて「逃げる」という洗濯をしたとしても、奇異な目で観たりすることなく認めてあげることだと思う。
世間では、引きこもりやニートなどの社会適合者たちは、周囲の目線が痛くて外に踏み出すことが出来ない。
これはイジメに関しても同じ。
子どもにとって、自分の住んでいる世界は「家と学校」だけなので、
自分にとって人生の大部分を占める「学校」という環境を抜け出すことに強い抵抗を感じているのだ。
しかし、逃げることは悪いことではない。
そのことを子どもたちが認識する必要があり、周囲の大人も「つらい時は逃げても良いんだよ」と、認めてあげるべきだ。
「逃げる」という選択肢を、まだ視野が狭く、つらい気持ちを抱えている子どもに対して与えてあげることが、イジメを少しでもなくすことにつながるのではないだろうか。
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