【人生論】幸福をもたらす娯楽とは?喜びや楽しさって何?娯楽について語る

人生論

皆さんは娯楽について考えたことはあるだろうか。

スマホをいじったり、本を読んだり、映画を見たり、友だちと話したり。

何かしら楽しいことや喜びを求めて、なんとなく娯楽という行為を楽しんでいることだろう。

しかし、その行為についてしっかりと考えると、自分が後悔してしまったり、「楽しむためにやったのに楽しくないな…。」と感じたり、自分のに望んでいた気分や感情が湧くことがなかったりすることがある。

それはなぜだろうか。

今回の記事では、そんな素朴な疑問に答えを見出すために、人生における娯楽が果たす役割や、人生に豊かさをもたらす娯楽とはどのようなものかなど、”娯楽”について考えていきたい。

娯楽の目的は幸せになること

まず、娯楽(定義は曖昧だが)という行為は、私達は幸せになるために行っている。

不幸になるために娯楽に耽る人間などこの世にはいないだろう。

なにか喜びや楽しみなどのプラスの感情を求めて、なんとなくやっている人がほとんどであろう。

娯楽の人生における位置づけ

たまに、なにか自分の好きなことに取り組んでいる人に対して、「〇〇なんてやっても意味ないだろ」という人がいる。

そのような人は、なにか学問や芸術、仕事など、一つのことに打ち込んで大きな成果を出している人が多い気がする。

社会的評価を得るようになってくると、「社会的評価を得られない行為に価値はない。」と短絡的に考えるようになってしまう人もいる。

確かに、第三者からみたら「そんな娯楽は何も生み出さないだろう」と判断してしまうかもしれない。

しかし、娯楽というのは人生に非常にうるおいを与えてくれる、人間にとって必要な営みである。

「意味がない」とすぐに判断する人は、「社会的評価=幸せ」と繋げて考えてしまう人が多いが、社会的評価や世間の目と幸せは、ある程度切り離して 考えなければいけない。

そうでなければ、何をするにしても周囲の目が気になってしまい、自分の「これがしたい」という素直な気持ちに蓋をしてしまい、自分が窮屈になって生きづらくなってしまうからだ。

これを幸せといえるだろうか。

受動的娯楽

さて、ここからは「人生に喜びを与えてくれる喜び」と「後に虚しさを感じてしまう不幸につながる娯楽」について話していく。

それが「受動的娯楽」と「積極的娯楽」である。

まずは受動的娯楽から。

これは、テレビを見たり、スマホをぼーっといじったり、ゲームをしたり漫画を読んだりなど、何も頭を働かせずとも、向こうから働きかけてくれる娯楽のことである。

これは自分で思考停止していても取り組めるものである。

受動的娯楽に取り組むと、一時的には「楽しい!」「気持ちイイ!」などのプラスの感情を得ることができる。

しかし、それはあくまで一時的で、その行為をやめた瞬間には何も感じることができなくなってしまう。

それによって、「アレをやって楽しくなりたい」と感じ、その一つの受動的娯楽に依存してしまう。

そうなると私達は自分の頭で思考することができなくなり、人間関係や仕事など、充実感や達成感を感じられる営みを行わなくなり、ただただ一つの娯楽に溺れて、それをやらないと虚しさと寂しさに襲われるというループに陥る。

もちろん、一つのことに没頭して技術を上げることは、非常に有益なことである。

今の時代、重度のゲーム依存症から世界トップレベルのプロゲーマーになっている人もいるくらいだからだ。

しかし、何事もバランスが大事という話で、心の拠り所をゲームという一つのものに置くのではなく、家族、友達、恋人、仕事、読書など、他の要素にも拠り所を割り振るのだ。

受動的娯楽に溺れると、そのように心の拠り所を複数持つことが困難になってしまい、依存状態が悪化してしまう傾向にある。

幸せとは一つの行為の上に成り立つのではなく、たくさんの泉から水を汲むことで、潤ってくるのだ。

一つの泉だけに固執していては、そこから水がなくなったときに酷くメンタルが落ちてしまい、無気力になったり、希死念慮に襲われる可能性がある。

積極的娯楽

受動的娯楽がいかに身近かつ危険なものであるかを理解していただけたと思う。

今の世の中は受動的娯楽に溢れすぎていて、思考停止に陥ってこれの虜になっている人も多い。

では、依存することもなく、人生における一要素として、わたしたちに深い喜びと充実感を与えてくれる娯楽とは何なのだろうか?

それが、次に説明する「積極的娯楽」である。

これは、文章を書いたり、カメラで風景の写真を取ったり、読書をしたり、スポーツをしたりなどである。

これらの共通点はどれも「自分を起点としている」という点だ。

誰かが作ったコンテンツをただ享受するのではなく、自分で考えて生み出し、その行為自体を楽しんでいる。

積極的娯楽は、ダラダラと何時間も続けたり、頭を働かせずにすることができないので、その分、それに取り組んでいるときは非常にいきいきとした濃密な時間を過ごすことができ、

終わった後も、「充実した時間だったな」と心から思えて、他の営みに対するモチベーションや心持ちもプラスになる。

私は、これこそが人生にうるおいを与えてくれる娯楽のあるべき姿だと思っている。

先にも言った社会的評価についても、自分が作ったコンテンツを世に出すことで、そのような評価も手に入る可能性がある(もちろん、先程も言ったように社会的評価と幸福は必ずしも結びつかないが)。

どんな娯楽も取り組み方次第で積極的娯楽に変わる

ここまで読むと、「じゃあテレビを見るのが好きな俺は不幸なのか!ゲームが好きな俺は不幸になる運命なのか!?」と反論する人もいるだろうが、それは違う。

娯楽というのはその行為自体に区別が生まれるのではなく、取り組み方に違いが出るのだ。

ゲームを例に取ろう。

ただ「時間を潰そう」という動機で漫然とRPGに取り組む人と、「このストーリーを最速に攻略するためにはどうするか」という明確な目的意識を持ってRPGに取り組む人がいるとする。

前者の人にとっては、RPGゲームというのが受動的娯楽になってしまっている。

ただ人が作ったコンテンツを何も考えることなく享受している状態。

全くゴールもなく、目標もないので、どれだけやっても充実感や達成感がない。

それに対して後者はどうだろうか。

人がコンテンツをプレイしていることは変わらないが、取り組み方は前者とは異なる。

自分が達成したい目標を立てて、それに向けて努力をしているので、達成したときには充実感と達成感を感じられる。

これは人生おいて深い喜びをもたらしてくれるものだ。

重要なのは頭を腐らせないこと

今回は、娯楽について考えてみた。

今の時代、簡単に娯楽を楽しめるようになった。

スマホを開けば面白い動画や投稿を見ることができるし、自分が手を動かさずともダラダラと気持ちよくなれるコンテンツがたくさんある。

しかし、そのような娯楽ばかりに溺れていては、私達は自分で思考して「何かを生み出す」ということをしなくなり、なんの充実感もなく時間を過ごしてしまうことになる。

だからこそ、自分の普段の生活を見直してみて、「この満たされない感覚の正体は何なのだろうか」と考える必要がある。

そこで自分の趣味や暇な時間の使い方を見直して「私は受動的娯楽に溺れていたのだな。」と気づくことができたのなら、深い喜びと充実感や安心感に包まれた温かい人生を送るための一歩に必ずなるはずだ。

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