私は高校受験を失敗したことがキッカケで、高校1年生の頃から「高校受験では失敗したから、大学受験では良い大学を目指すぞ!」と躍起になって勉強をしていた。
それ自体は志が高くて良いことだとは思うのだけれど、
私はそのせいで、学力、学歴というものに固執しすぎて、
青春をすべてドブに捨ててしまった経験がある。
今回は、私のような過ちを繰り返す高校生が増えないように注意喚起として、学歴至上主義になる高校生の特徴、
そして高校生活における集団生活、イベントが人生においていかに大きな意味を持つかを、私の偏見も交えて語る。
今回のテーマは学歴ということで、センシティブな話題なので反論もあると思うが、それも覚悟でこの記事を書く。
ちなみに私について軽く自己紹介しておくと、
私は高校生活は完全に失敗しており、不登校になった挙げ句、退学。
大学受験も結果的には失敗している。
そんな私が書く記事なので、だいぶ偏った意見だったり説得力のないことを言ったりするがそこはご容赦願う。
この記事はこんな人にオススメ
- とにかく「偏差値の高い大学に行きたい!」と思っている高校生
- 受験勉強をする意味がわからなくなってきている人
- 「受験勉強を頑張ろう!」と意気込んでいる高校1~3年生
高校は受験勉強だけでなく、将来の視野を広げることができる貴重な場
まず結論として、「高校生はいい大学、良い学歴だけに固執せず、もっと視野を広げていろいろな経験に挑戦したほうが良い」ということ。
高校生はそこそこ心身も発達して、まさに大人になる前の最終段階だと思う。
そんな人生において重要な時間を、同じ教室で、性格も育てきた環境も何もかもが違うクラスメイトと共に過ごす。
授業は勿論、体育祭や文化祭などの行事もわんさかある。クラスメイトとの人間関係の構築も大事だ。
こういった沢山の経験を、10代のうちにしておくことに意味があるのだ。
高校生は「学校に行くのダルいな~。」とか、「体育祭面倒だな~。」と感じる人も多いが、面倒なことにこそ、そこでしか得られない貴重な経験があるのだ。
次章からは、なぜ受験勉強だけに固執するといけないのか、そして高校生活をどう過ごすべきかを語っる。
意識の高い高校生ほど学歴に固執しがち
思考停止で「とりあえず良い大学に行こう」と思って、勉強にすべてを費やすような思考を持つ高校生は意外にも多い。
これは意識が高くてマジメな人ほどこういった思考に陥る。
おそらく、親や先生が言う「将来の安定」を求めているのだろう。
しかしこのご時世、先の見えない将来に安定などを求めたところで、それは保証されない。
国も会社も助けちゃくれない。
だからこそ、高校生の頃は受験勉強という、高校生活の一要素だけに固執しすぎないでほしいのだ。
根深い偏差値教育
というのも、こういう”偏差値思考”の高校生が増えるのは、高校に入ったら教師たちが「勉強は大事です!難関大学に入りたいのなら周りと差をつけながらウンタラカンタラ~」などとほざくからだ。
また、予備校や塾も同じように「受験勉強は大事だ」と更にはやし立てる。
確かに、高校は勉強をする場所でもあるので、教師の言い分は間違っていないし、安定した将来のためにも良い大学に行くのは良い選択だ。
予備校も、大学受験という壁を乗り越えるためにサポートをしてくれるので、「予備校や学校はクソだ!」と言うつもりはない。
しかし、私は過去にこのようにツイートしたことがある。
この通り、将来どうなりたいかがまだ明確になっていない高校生に【とにかく勉強しろ!】と言うのは、将来の視野を狭めている用に感じる。
その勉強をした先には何があるのか?
自分は将来どうなりたいかを考えるのがまずは先ではないのかと思う。
ただ上から押さえつけて「偏差値の大学に行った方がいい」というのは、短絡的で生徒が自主的に将来を考える機会を奪っている。
そのような偏差値教育にも私はいまだに疑問を抱いているし、間違っているとも思う。
なぜ受験勉強をするの?
しかしここで断っておきたいのは、私は受験勉強に時間を費やすことがダメだと言いたいのではない。
自分が納得した上で、「高校生活のすべてをかけてでもこの大学に行くんだ!」と、自分の将来を考えた上で勉強をするのなら、それは素晴らしいことだと思うし、それもまた青春だ。
大事なのは、「なぜその大学に行くのか?」ということ。
これを深く考えずに「とりあえず偏差値の高い大学だ!」と決めて受験勉強に没頭するのは、少しもったいない気がするのだ。
まるで先の見えない迷路を探り探りで巡っているようで、ゴールが見えない。
大事なのは、将来どうなりたいか。どんな生き方がしたいか。何をしたいか、逆に何をしたくないか。
そのような自分の価値観を、高校という場で集団生活を通して様々な経験をして広く多様な視野、価値観を持つことで将来の方向性を決めた方が、
あとあと後悔しない幸せな人生を送れると思うのだ。
色々な価値観を持つ人たちと関わることができる場所が学校
そもそも高校は勉強する場所でもあるが、それよりも集団生活をすることに意味がある。
高校では、必然的に行事などを通してクラスで団結、協力することが求められる。
その時にクラスメイトとともに協力して何かを完成させるという経験は、一生の思い出となるし、自分の向き不向きというのもわかってくる。
また、人間関係の築き方を学べるのも良いポイント。
クラスメイトの中には、「この人とは気が合いそう。」と感じる一方、「この人とは絡みづらいな。」と感じる人もいる。
だからこそ、そういった嫌いな人との接し方も学べる。
こういった自分とは合わない人間とも接することで、世の中にはこういった考えの人もいるのだなという学びが得られる。
ちなみに私は高校生活で、最初から壁を作っていたのでほとんどクラスメイトと会話をしていないため、未だに人とうまく会話ができない。
こうならないためにも、最低限の人付き合いは、コミュ障の人でも挑戦してみるべきだと思う。
高校では思いっきり青春した方が後悔は少ない
私がもう一度高校生に戻れるなら、できるだけ行事にも部活にも積極的に参加したい。
ないものねだりかもしれないが、集団で同じ目標、課題に向けて協力するという経験を10代のうちにすることは何よりも貴重でかけがえのない宝だ。
受験勉強も青春?
こう書くと、
「そんな言い方だと、受験勉強からは何も得られないみたいな言い方に聞こえるじゃないか!」
と反論が来そうだが、私が言いたいのはそういうことではない。
あくまで、高校生活でのイベントをないがしろにせず、盲目的に受験勉強をしていたら、その先に得られるものは何もない可能性が高いということを言いたいのだ。
私の場合は、大学を目指す動機など大したことはなかった。
「とりあえずいい大学に行ければ大丈夫だろ。」
その思考が危険なのだと私は言いたいのだ。
そんな考えで勉強をするのなら、高校生活で友達を作って一緒に遊んだり、行事に積極的に参加して、協調性を高めたりすることに全振りした方が、結果的に自分の将来にとってプラスになる。
高校が、最後の集団生活
そして、一番後悔していることが、同じ教室でガッツリ集団生活ができる最後の機会が高校なのだ。
大学からはクラスという概念がなくなるし、人と人の距離がよくも悪くも離れがち(まぁ私は自分から行動しなかったから友だちができなかったのだけど)。
高校では否が応でも集団生活をすることになる。
当時はそれが嫌で嫌でたまらなくて、結果的には退学までしてしまったのだけれど、
今思えばそういった集団生活の場を提供されているということは、非常に恵まれていて幸せなことなのだなと思った。
まぁ、私は今高校生に戻ったとしても何も行動できないとは思うが(笑)。
結論:受験勉強で視野を狭めてはいけない
結論としては、「受験勉強だけに集中するのもいいけど、将来の方向性を見定める上で、集団で行事に積極的に参加して協調性を育むことは、結果的に人生の幸せにつながる」ということだ(長い)。
勿論、受験勉強を通して学べるものはある。
しかしそれと同時に、学校生活におけるイベントを通して得られる成長も確かにあるのだ。
それを認識した上で、自分が将来どうなりたいかを考える。
まぁ、高校生なんて社会に出たこともなければ何の知識もないガキなんだから(失礼)、まずは学校のイベントに積極的に参加して、いろいろな人と関わる経験を増やす。
その上で「自分は将来どうなりたいんだろう。」と考える。
そこで医者になりたいとか学校の先生になりたいと言うならば、自分の学びたいことにあわせて大学を選び、そこに向けて突き進むべきだ。
私のように何も考えずに「とりあえず大学に行こう」というアホな考えだと、入った後に「なんか大学ってつまらないな。思ったより違うな。」と後悔することになる。
だからこそ、受験勉強だけに重きをおくのではなく、高校生活で青春することも大事なのだ。
両方のバランスを調整しながら、自分にとって有意義で楽しい高校生活を送って欲しい。
以上、高校を不登校の末に退学した男による、何の説得力もない記事でした。
それでは。
コメント