私達は、日々周囲の目を気にしながら生活している。
特にこの国でその傾向が強いため、「周りにどう思われるかなんて関係ない。自分のやりたいことをやっている。」と心の底から思える人は少ないであろう。
今回は、そんな社会文化である「世間の目」について私なりの考察を述べていこうと思う。
世間の目とは
まず「世間の目」とはなにか。
社会には、「犯罪を犯しちゃだめ。」「勝手に人のものを盗んではいけない」「人に迷惑をかけちゃいけない」などの社会的規範が存在する。
日本人はこの社会的規範に反する行動をする人は非常に少ないように思われる。
それはなぜか。
社会的規範を守る動機づけが、「世間」によってなされているからである。
すなわち、「これをしたら周りの人に顔向けできない…だから守ろう」というように、いわば世間の目によって監視されている社会が成立している訳である。
世界でも治安が良い国と言われる日本は、このお互いがお互いを監視しあっている(実際に監視されているかどうかという話ではない。個人がそれぞれ、「世間に監視されている」という感覚を持っているという点が重要。)ために、犯罪や人に迷惑をかける用な行為をする人が少ないのである。
自分がどう思うかよりも他人にどう思われるか
この「世間の目」を重視する社会において、人々が重要視するのは、もちろん他人からどう思われるかである。
これが意思決定の主な基準である。
私達はしばしば、自分の意志に反してでも世間の目を優先して行動を選択することがある。
「この誘いを断ったら友達に嫌われちゃうな」とか、「この学校に進学したら周囲からチヤホヤされる」など。
私は昔からこの風潮が奇妙に思えてたまらなかった。
私自身、友達がおらず一人ぼっちで過ごしていた時間が多すぎたため社会と関わる機会がなかった。そのため、基本的に自分のことしか考えておらず、自分がどうしたいか以外の判断基準を持ち合わせていなかった。
世間の目を気にしながら行動を選択することが非常に奇妙なことに思えたのだ。
世間の目は幼少期から徐々に内面化されていく
世間の目は、幼少期からの親や教師からの教えによって、徐々に内面化されていく。
「アレをしたら立派なおとなになれない。」「コレをしたら恥ずかしい」。
以上は、すべて他人からどう思われるかという基準に基づいて、行動を律している。
「自分が不幸になる」とか「損をするのは自分なんだよ」など、【その行動をしたら自分がどうなるか】という視点で説教をしない。
だからこそ、世間というものを幼少期から強く意識するようになり、無意識下に染みついていくのである。
しかし、この記事において、世間の目という社会文化を否定するつもりは毛頭ない。
しかし悪い点と良い点に目を向けて、社会がより良くなるためにどうするべきかを考えていこうと思っている。
ということで次章からは、世間の目の存在がどのようなメリット・デメリットをもたらすのかを考えていく。
世間の目の良い点
規律の維持
まず、世間の目が存在することで、他の人があれこれ言わずともそれぞれが自分で自分を律して行動できるということだ。
わかり易い例が、某ウイルス蔓延に関するマスク着用の要請である。
その他に、外出自粛の要請も、国民はなんの文句も言わずにそれを引き受けた。
他の国では、「俺たちはマスクを着用したくない!」「外出させろ!家にいたくない!」と大規模なデモが起こった。
日本人からしたら「なんでこんなことをするんだ?国からの要請だし、みんな自粛しているだろう。」と思われるかもしれない。
しかし、世間の目が監視の目となっており、「みんながやってるから自分もやる」という思考は日本特有の思考だ。
「やりたくないことはやらない!」「やりたいことはやる!」と声高に叫べるような文化がこの国にはないため、規律の維持が楽なのだ。
これが日本の治安が良い最大の要因だと私は考える。
忍耐力や我慢強さを与える
これは私個人の意見だが、日本人は非常に勤勉で、物事をやり抜く忍耐力、我慢強さがあると思う。
ソースはなく完全に個人的主観なのだが、この理由は、世間の目が良い方向に作用しているのではないだろうか。
人はどうしても、なにかやらねばならないことがあったとしても、スマホやゲームなどの誘惑に負けてしまうことがある。
しかし、世間の目というのは、人間が存在する限り意識して内面化するものなので、誰かが強制せずとも、自分で自分を律して「やらなきゃいけない」と頑張れる力がつくのだ。
これによって大きな目標を達成したり、自己実現を叶えることができるのなら、世間の目という文化は非常に有益なものとなる。
世間の目の悪い点
そういう意味では、日本は暮らしやすい社会とも言えるだろう。
治安がよく、自己を律することのできる社会。
しかし、世間の目によって苦しさを感じる場面もある。
次はそういった悪い点について語っていこうと思う。
精神的な窮屈さ
世間の目を内面化していくと、いつも誰かに監視されているような感覚に陥る場合もある。
たしかに、いつも「他人にどう思われるか」を気にして行動していたら、いつも自分の周りに監視カメラがあるような感覚に襲われ、精神的な窮屈さを感じることもある。
実際私は、世間の目と自分の意志がせめぎ合って葛藤していた時期があった(今もあるけど)。
「自分はこれがしたい」という意志は確かに存在し、自分でもそれを認識している。
しかし、世間の目も内面化されているため、自分の頭の中で天使(自分)と悪魔(世間)がささやきあっているのだ。
この葛藤は、不安へと変わり、精神的苦痛へと変わっていく。
この点において、世間の目というのは個人の行動を縛っているとも言えるだろう。
思考停止
「世間の目」が強い社会で生きる人々は、常に意識のリソースをそれに割いている。
彼らにとって周囲からどう思われるかは、自分がどう思うかよりも重要である。
そのため、社会が「右を向け」といえば、左を向きたいという自分の欲望や意志を曲げてでも右を向く(少し大げさだが)。
それが私達の生きる社会である。
これは、私達に自分の頭で考えるという機会を奪っているのと同義である。
何が正しくて何が間違っているのかという判断は、本来は社会と個人が相互に作用しあいながら決められていくものだ。
しかし、世間の目が個人に大きく内面化されすぎると、社会と個人が相互に作用することなく、社会が個人に対して一方的に「お前はこうするべきだ」と圧力をかけるような形で、個人が動いているのである。
そうなると、個人は無意識に思考停止し、奴隷のように行動の自由を奪われる。
これが実際に起こっているのが今の私たちが生きる社会なのだ。
世間にどっぷりと浸かって思考停止している私達だが、もう少し危機感を持って、社会を動かしていく意識が必要なのではないだろうか。
まとめ
今回は、世間という私達が無意識に内面化している社会文化について考察してきた。
私はこの文化を否定するつもりは毛頭ない。
しかし、人々が世間の存在を認識して、それについて考えてみる必要はあると思う。
世間の目から生まれる社会問題に目を向けたり、
自分の行動選択の基準は「自分」なのか「世間」なのかをちょっと考えてみたり。
自国と他国の思考様式や行動様式の違いについて少し調べたり。
こういった一つ一つの意識が、社会を変えるキッカケになる。
社会が変われば、もっと個人がイキイキとして活気に溢れると私は信じている。
未来に不安や恐怖を感じたり、行動することに自信が持てない人が減るだろうと私は信じている。
この記事がそのために少しでも役立ってくれることを信じて、締めとさせていただく。
それでは。
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