なんか私のブログ記事は、少し内容が堅苦しくて自分でも読むのが面倒だと思うので、
今回からテキトーに書いてテキトーに放り込む、IQを極限まで下げて書く雑談記事をちょこちょこ投稿していこうと思う。
記事の主題から外れたり、無益なことをひたすら書き並べて、私の思考の整理に、読者の暇つぶしに役立てればいいなと思う次第。
ということで今回の話題は「優しさは自覚してはいけない」という内容。
というのも、私自身、「優しいね」と言われる事が多い。
誰かの話を聞いてあげたり、道に落ちてるゴミを拾ったり、相手が間違ったことをしても許したり。
まぁこんな具合に、優しいと思われることが多いようだ。
しかし、私は優しいと自分で思ったことはない。
むしろ日常でイライラすることは多いし、自分で「俺って優しいことしているな」と意識して過ごしているわけではない。
というのも、優しさとは本人が自覚してしまったら、優しさではなくなるからである。
言い換えると、「自分が優しい」と思っていたら、他人にとって優し異人間でいられなくなるということ。
これはどういうことか。
まず、自分が優しい人間だと思っていた場合、もちろん「これは優しさだ」と自分で思い込みながら、他人に振る舞う。
これは、相手にとって不都合なことでもだ。
本当に優しい人間は、仮に相手にとって不都合で不快な気分にさせたときは、素直に謝り、反省することができる。
これは自分の優しさを自覚していないがためにできることである。
しかし、自分が優しいと思い込んでいる人間は、相手に「それは優しさではないよ」と指摘されたとき、それを認めることができない。
「自分は優しい人間だ!」と心の底から思っているからであり、そんな自分が相手に不快な思いをさせてしまったことを認めることができないからである。
この時点で読者の方は、「優しさじゃなくて、ただの自己満足で気持ちよくなりたいだけの人間じゃん」と思ったことだろう。
そう、正解である。
このような自分の優しさを自覚している人間は、別に相手のことを想って優しく振る舞っているのではなく、
ただ「他人に優しくしている自分」を評価して気持ちよくなりたいだけの、自己満足人間なのだ。
皆さんの周りにもいるだろう。「お前のためを想って言ってるんだぞ!」と言って、自分の意見も聞いてくれずに一方的に価値観を押し付けてくる自己満足人間が(特におばさんおじさんに多いよね)。
悲しいことに、共感能力が薄くて自分本位でしか物事を考えられない人間というのは一定数存在する。
以上のように、自分の中の優しさというものは、自分で認識してはいけないのだ。
優しさという感情は自然に心の奥底から湧き上がってくるものであり、それを認識することは不可能なのだ。
そもそも、「優しい」という評価の多くは、第三者によってなされるものであるので、それは曖昧かつ不明瞭なものなのだけれど。
そう考えると、適度にクズで悪意のある人間のほうが私は人として信用できる気がする。
クズで悪意のある人間は、自分の悪意をコントロールすることを考えたり、自身の行動を内省したり、懐疑することができる。
まぁ、「優しさ」というのは皆が疑いもなく振り回すため、薬にもなるし毒にもなるということだ。
この話をしていたらふと思い出したのだが、
小学校の時、なにか自分の気に食わないことがあったら、クラスメイトと先生が見える場所で「うえ~ん(泣)」と泣き出して、悲劇のヒロインを気取ることで助けてもらおうとするクズ女がいた。
彼女は時には「〇〇くんに〇〇された~」とか言っては誰かを悪者にして、周囲を味方につけて、悪意の方向を意図的に特定の人物に向ける。
まるで軍隊の指揮官のようである。
まずは自分の周りに兵隊を置いて、悪意の大砲を一斉に一方向に向ける。
こういった人間は小学校だけでなく社会に出ても腐るほどいる。
この度に、「”多数決は正義”というイデオロギーに従う」のか、「自分の頭で考えた上で、正しさを追求するのか」という二択を考えさせられる。
世渡り上手で楽に生きられるのは前者であろう。私はここで否定するのも面倒なので、「大人数が正義」という日本人らしい価値観についてここでどうこう言うつもりはない。
日本のクソみたいな同調圧力が反映されていて非常に良いと思う。
後者は自分主体で何が間違っていて何が正しいかを追求するスタイル。
これはつらくて面倒でだるいことである。
しかしまぁ楽しいこともある。自分の心から納得できて「正しい」と思えたことに対しては、誰よりも固く、揺るがない自信がつくのである。
この自信というのは、前者の「大人数正義」の価値観では身につくことがないものだ。
また、人間的魅力が身につくという点もある。
「大人数正義」という価値観の人間は、その他大勢のNPCと存在感が変わらないので、面白くないし人間的魅力を全く感じない。
某少年革命家の言葉を借りると「周りの人がロボットに見えた」状態である。
自分なりの価値基準があり、それを元に自ら主体的に正しさと間違いを判断して行動している人は、非常にいきいきとしていてかっこいい。
読者の皆さんはどう思うだろうか。どうなりたいと思うだろうか。ぜひご意見を聞かせてほしい。
ちょっと話がそれてきたのでここらで終わろうかな。
雑談と言いつつもなんだかんだ長くなってしまった。意外とこういう記事もたまには悪くない。
次回は何について話そうかな。人間関係について少し気になることをつまんで行こうと思う。
それでは。
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