「死」の視点から、これからどう生きるべきかを考える【書評】

読書

私たちはいずれ死ぬ。そのことは紛れもない事実である。

そこで私たちは今生きている日本社会でどう死んでいくのか。

それを考えることは、今どう生きるべきかにつながる重要なことだと私は考える

今回紹介する本は、解剖医と建築家の視点から、日本に於ける死について考察する対談形式の書籍。彼

らの職業の視点から、日本社会から起こる死について深く考察されている。

バカの壁で有名な養老孟司先生については知っている方も多いことだろう。

娯楽としても教養としてもし興味深い内容だったので、紹介していこうと思う。

考えるのは二人称の死についてだけ

死について考える場合、それは大きく3種類に分かれる。

一人称の死と二人称の死と三人称なしである。

まずは一人称の死。

これは自分の死である。自分の死について考えること。

次に二人称の死。

これは、友達や家族、恋人などの、自分の身の回りの人の死である。

これが一番私たちは考えることが多いだろう。

最後に三人称の死。これは、見ず知らずの人の死である。例えば、「コロナウイルスで〇〇名死亡」と

いうニュースで表示される人の人数は、三人称の死である。

ここで考えて欲しいのは、私たちが考える必要のある死は、二人称の死であるという点。

一人称の死については、自分が死んでしまったらこの世にはもう自分はいないので、考えてもしょうが

ない。現世との関わりがなくなった後のことを考えても何も起こらない。

三人称の死についても同じこと。

ニュースで〇〇名が死亡したというニュースを見ても、心を痛めはするけども、特に大きく感情が揺さ

ぶられて涙したり、深い悲しみに襲われて身動きが取れなくなるということにはならないだろう。

しかし、身の回りの人間の死、すなわち二人称の死に関しては、私たちが最も考える頻度が高い。「あ

のひとがいなくなったら自分はどうなるだろう。家族が死んだ。自分はどう生きていけばいいのか。

などなど、二人称の死について考えることは、私たちが生きていく上で最も考える必要のあることなのである。

これは身の回りの人間関係や、組織への帰属意識などが、関わってくる。後ほど詳しく述べる。

日本人特有の思考

やりたいことを「やりたい」と言わない日本人

日本人は思ったことを言わない。

自分のことは言わずに黙っていることに美学があるという思想が強い。また、思ったことややりたいことを言うと周囲から弾圧されやすいという風潮もある。

例えば、会社で飲み会に誘われて、「行きたくないけど、皆んなが行ってるし断ったらなんか立場が悪くなりそうだから、行っておこう。」となってしまうシチュエーションはよくわかりやすい。

横並び思考で、出る杭を打たれる日本においては、やりたいことをやりたいと口に出すと嫌悪感を抱かれる。

また、お金を儲けるということに関しても、日本の企業は「お金を儲けたい」と言わない。

企業が利益を追求するのは当然のことなのに、「お金を儲けることは穢れている」という発想がどこかにある。

だから代わりに「社会に奉仕したい」とか美辞麗句を並べ立てて本当のことを言わない。

主体や責任を問わない日本人の甘さ

また、日本人は責任を問うことに関しても、それをしないという事が多い。

例えば、戦争が起きたとしても、「この戦争が起きた責任は誰にあるのか」と考えることをしない。

「あの雰囲気であれはしょうがなかった。しょうがないことだ。」となってしまう。

良くも悪くも、責任の追求ということをしないので、連帯責任だとなって終わったり、何かが失敗しても、「これは誰かのせいとかではなく、しょうがないことだ。」とウヤムヤになってしまいがち。

命は自分のものではない

命の所有権は私だけにあるのだろうか。自分のものなのだから活かすも殺すも自由なのか。

もし「命が自分だけのもの」という考えが広まっていれば、日本に自殺者が多い理由もなんとなくわかる。

一時の気の迷いで自分から命を投げることは、周囲に迷惑がかかることはもちろん、本人にとってもそれがベストな行動なのか甚だ疑問である。

日本は、世間が神の代わりとなっている

一神教の世界では、神が社会秩序を保っている。

例えば、「道端にゴミを捨ててはいけない」という秩序をなぜ守れるのかというと、神が自分を見ているからである。神が監視の目の役割を果たしている。

しかし、宗教が浸透していない日本において社会秩序を保っているものは、神ではなく世間である。

「道端にゴミを捨ててはいけない」のは、「周りの人が観ているから」「ゴミを捨てたら周囲の人に白い目で見られるから」。

これは逆に言えば、「誰も見てないところでは道端にゴミを捨ててもよい」ということになる。

これでは、状況で社会秩序を抑えていることになり、バランスが悪い。

共同体(人間関係や帰属意識)の感覚が薄まれば、生きる理由も薄まる。

先程、「命は自分のものだと思い込む人が多い」という話をした。

こう考える人は、共同体の感覚が薄くなっているのだと思う。

人が生きる理由は、自分だけではどうしても生きるモチベーションは長持ちしない。

恋人、友達、家族などの大切だと思える人間関係や、所属しているコミュニティ、組織があるからこそ、「ああ、私はここにいていいんだ。生きてていいんだ。」と安心できる。

逆に、この共同体の感覚が薄まれば、すなわち孤独になれば、人は死にやすくなる。

自分が死んでも周りの人は困らないという理屈が成り立ってしまう。

だからこそ、「二人称の死が持つ意味」について考える必要があるのだ。

自分が正しいと思える場所を持つ

メンタルの打たれ強さというのは、正しさの上に成り立つ。

たとえ否定されたとしても、「自分にはこれがある。」「この点では負けたけど、あの点においては私

が正しい」と思えるような場所を作ることである。趣味でも思想でも何でも良い。

仕事だけに熱中してそれ以外のことをないがしろにすると、仕事で失敗したときに自分を支えてくれるものは崩れてしまう。

攻撃性が他人ではなく、自分に向いてしまう

日本は世界で殺人率は低いが、自殺率は著しく高い。

これは、攻撃性が自分に向かっているからであると本書では考察されている。

日本人は、本音を言わない。やりたいことをやりたいと言わない。世間の目を気にする。

このような窮屈な社会の空気の中では、ストレスも溜まりやすいし、それを吐き出せる場所も、見つけにくい。

「弱音を吐いてもいい」「こういう生き方があってもいい」という、柔軟で多様な価値観が認められていないのだ。

自分がどう死ぬべきか、それは社会をより良くするためにも、自分がよりよく生きるためにも考えるべき重要なテーマなのである。

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