今回は純粋理性批判で有名なカントの哲学についてまとめていく。
当時の時代背景とカントの哲学の理念、重要な概念などをピックアップして解説していくので興味を持ってくれると嬉しい。
18世紀ヨーロッパの社会
まず本題に入る前に、なぜカントがこの考えを発信しようと思ったのか、何のために「純粋理性批判」を書いたのか。
その目的について当時の時代背景を中心に解説していく。
カントの生きた18世紀のヨーロッパ。
この時代のヨーロッパは「社会の価値観」が大きく動いた時代。つまり、何を信じ、心の拠り所にして生きればよいか不安になっていった。
そこで人々は価値観を信じる根拠を探し始める。
そんな中、ヨーロッパ社会ではこのような2つの疑問を感じるようになる。
①あらゆるモノは、自分の目で見て考える「主観」によってでしか理解できない。ならば、厳密な客観性というのは存在しないのではないか?
②我々が感じている自由な意思というのは存在しないのではないか
この2つの意味が理解できなくても後ほど噛み砕いて説明するので心配はいらない。
「ああこんなこと疑問に思ってたんだ~」くらいで流してもらってOK。
客観的に正しいことは存在するのか?
当時の時代背景を理解してもらったところで、カントが生き方に悩む人々に示した哲学に入っていこうと思う。
まず上で示した疑問①「厳密な客観性は存在するのか」について。
確かに、我々は決して主観の外からは出られない。
同じものを見ていても、自分の見え方が他の人の見え方と同じかどうかは決して知ることができない。
我々人間は、主観というフィルターを通して物事を認識しているのだ。
「客観的に正しい普遍の真理」も、習慣的にそう信じているだけであり、客観的な世界をそのまま捉えたものではない。
そこでカントは次のように考えた。
我々は、物事の本当の姿(客観的な姿)を捉えることはできない。
しかし、私達人間はみんな、共通して同じ認識方法を持って生まれてきているので、「人類の間で客観的」に物事を見ることができる。
つまり、モノの本当の姿を追求しようとしなくても、人類の間での共通の姿を捉えることができるので、その点で客観的である。ということだ。
叡智界と現象界
カントは、「本当の世界」と「私たちの主観で捉えたモノの世界」それぞれに名前をつけて分けた。
- 「モノの本当の世界」を叡智界
- 「私たちの主観で捉えたモノの世界」を現象界
と呼んだ。
私たちは私たちの感覚・主観を通じてモノを認識している以上、叡智界のものを決して認識することができず、現象界のものを認識しているのだ。
カントの考える、ものを認識する方法(コペルニクス的転回)
我々は、「”客観的に存在している”1個の林檎を、我々が認識している」のではなく、「認識が、「ここに一個のリンゴがある」と捉えているからリンゴが存在している」という考えになるのだ。
つまり「モノは客観的に存在する」のではなく、我々が現象界で認識しているから存在するという考えなのだ。
認識が対象に依存しているのではなく、対象が認識に依存している。ということだ。
対象は、私達が認識するから存在している。逆に言えば、私達が認識していない間は対象が存在しているかどうかはわかりようがない、ということである。
この逆転の発想を「コペルニクス的転回」と表現した。
コペルニクスは、当時、地球が回っているのではなく、地球を中心に天体が回っているという非常に強い観念を、「地球が回っている」という、当時としては、とんでもない発想を発表した人物だ。
カントは、その発想の大転換を模して、「コペルニクス的転回」と表現したのだ。
理性による暴走
新たに物事を考える際に動かすのが理性である。
感性は直感を生み出し、悟性は判断を形成する。そして理性は「推論」を行うものだ。
例えば、「鉄粉に磁石を近づけた」という場面を想定する。
まず、感性が、その場面を空間と時間の面から直感を形成する。その状況を感じ取る。
その感じ取ったものを、「磁石が鉄粉を引き寄せた」と悟性が判断する。
それでは、その鉄粉を磁石に近づけた「見えないモノ」は何でしょう。
近づけたその後、私たちは、「磁力」というものがあるのではないか、と推論する。
その推論によって見えないものを生み出す昨日を持つのが「理性」だ。
これは、「空間」と「時間」という枠組みを超えて、全く目に見えないモノを推定しているというのが特徴だ。
究極の真理を探究する理由
そもそも、なぜ人類は究極の真理を探究しようとするのだろうか?
これらについては、カントは2つの関心があると語っている。
「理性は完全性を求める」もう一つは、その原因は?そしてその原因は?…。と問い続けたがる探究心の部分。
これによって人間は現象界から抜け出して答えの出ない問いを探し続けるのだという。
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