今回紹介するのはこの本。
現代で生きる私たちの悩みに対して、哲学者が答えを出すという本だ。
正直、腑に落ちない部分もあったが、勉強になる部分も多くあったので、そこだけ掻い摘んで紹介していこうと思う。
将来、食べていけるか不安
将来が不安。私たちが抱く定番の悩みだろう。
私はこのままこの仕事を続けていって大丈夫だろうか。
先々のことを考えて、何かを始めておいたほうが良いんじゃないか。
こんな風に将来への不安から、なにか行動を起こそうと計画している人も多いのではないだろうか。
しかし、将来を案じてその計画を綿密に詰めたところで、心配は本当に解消するのだろうか。
ハッキリ言って、将来何が起こるかなんて誰にもわからない。
そんなまだ何がおきるかわからない将来に向けてあれやこれやと考えるのは、ただの妄想にすぎない。
では、どうすれば、「将来食べていけるだろうか」などの心配を払拭することができるのだろうか。
そこでアリストテレスは、「将来の目的や計画をいったん忘れ、今この瞬間のやりたいこと、やるべきことに熱中せよ」と言っている。
アリストテレスは「将来の目的を最優先にした行為」を「キーネーシスな行為」と呼び、
一方で「将来の目的を度外視し、今この瞬間に集中する行為」を「エネルゲイアな行為」と呼び、次のように言っている。
「快楽というのは本来、エネルゲイアにほかならず、それ自身が目的なのである。」
これはどういうことなのか。
一見、キーネーシスな行為こそが、「今の自分の楽しみを犠牲にして、将来の自分のために備蓄する行為」となり、将来の不安を減らすのではないのか?
対してエネルゲイアな行為は、一見、刹那の快楽に身を任せて、結果的に将来に不安を積み残すものではないのか?
と思うだろう。
しかし違う。
エネルゲイア的な行為とは、「今、自分にとって楽しく充実している状態」がそのまま「すでに成し遂げた成果」になることだ、とアリストテレスは言う。
確かに、将来に目的を持って、それに向けて今の自分を犠牲にするよりも、
将来の目的など忘れて、今この瞬間のやりたいこと、やるべきことに集中したほうが、結果的に人生は充実する。
結果はどうであれ、無欲にプロセスの作業を楽しむ。手抜きをせずに、一生懸命楽しみ切るという人にこそ、高いパフォーマンスが生まれ、自然と良い結果が生まれてくるのだ。
かといって、打算的でない、結果を考えないなんて言う人はいないだろう。
そこで、「成功したら良いな」という欲は持っておいて、頭の隅に置く。
しかし重要なのは、そういった欲や下心は済において、今・この瞬間のプロセスを楽しみ尽くしてみる。
この、将来の目的重視の「キーネーシス思考」とプロセス重視の「エネルゲイア的思考」。
この両者をバランスよく発揮させることが、現実的には最も良い活動の仕方だと言える。
キーネーシスとかエネルゲイアとかわけがわからない単語が出てきて混乱している人もいると思うが、もう一度読み返してざっくり理解ほしい。
忙しい。時間がない。
やることが多すぎて時間がたりない。
このまま年老いて、いつか死んでしまうのだろうか。
そんな忙しい毎日に対して虚しさを感じてしまう人はいるのではないだろうか。
しかし私たちは、手帳やスケジュール帳のように、1日をタテに表示して、時間を罫線の間隔に例えて、「空間」的に管理している。
そして「この時間は空いてる」「この時間は埋まっている」というように、空間的に管理している。
私たちは、時間という目に見えないものを、目に見える空間的なたとえを用いて管理することで、私たちは自分に与えられた時間を無駄なく使おうとする。
しかし哲学者ベルクソンは、現代人のそのような時間の捉え方を批判している。
私たちは、「誰にとっても一律に流れる客観的な時間」を疑いもしない常識として生きている。
しかし、本当にそれで生きているという実感をできるのだろうか。という問いをベルクソンは投げかけているのだ。
例えば、壮大な自然を眺めながら、生きていることに思いを馳せる時。
また、良いアイデアがひらめいて、ずっと解けなかった問題や滞っていた仕事が、点と点がつながったようにスルスルと解決していき、展望が開けたように感じることはないだろうか。
そういった時に、時間は自分だけの広がりを持ち、濃密なものとなる。
通常な時間感覚を忘れるような主観的で濃密な時間こそが、時間を生きる私たちにとって「自由」ということなのではないだろうか。
そうベルクソンは指摘しているのだ。
もしあなたが毎日忙しくて自分を見失っていると感じるのなら、何もしないという1日をつくってみることだ。
その1日は何の目的ももたず、ただ好きなことをして過ごす。観たい映画、本、なんでもいいから興味の赴くままに触ってみる。
そうリフレッシュすることで、ただ一生懸命頑張るのとは違う、俯瞰した目で自分の仕事を見直すこともできる。
今まで無意識に周りに流されていたけど、他人とは違うオリジナルな生き方のイメージが思い浮かぶこともあるだろう。
本当に自由な時間とは、ごく主観的なものであり、客観的で皆一律に流れていくものではない。
そういった主観的で濃密な時間こそが、後から振り返るとずっと生産的で、充実した時間であったりするのだ。
緊張してしまう
3日後に迫った大きなプレゼン、発表のような、人前に出て話したり、自分の実力が試される場面を想像して、緊張で死にそうな気分になる。
これは誰にでもある身近な悩みではないのだろうか。
ここぞという場面で「緊張してしまう」という悩みに対して有効なのは、仏教の教えだ。
これについては過去に「反応しない練習」の記事で散々かいせつしたので、ここでは最低限の考え方を紹介する。
私たちが今囚われている緊張や不安は、そのプレゼンや人前に立つのが終われば、やがて何事もなかったかのように消滅する「無常」なものだ。
世界は「無常」であり、この世の中で実態視できるものは何一つなく、あらゆることが寄り集まっては流れ去る現象であることに気づく。
であるならば、過去の記憶にも未来への不安にもこだわりを持たず「今・ここ」に集中するということで、「失敗したくない」「生き残りたい」という煩悩か起こる過去や未来への執着の膨張を止めることができるのだ。
この不安や緊張との向き合い方については以下の記事で詳細に解説しているので合わせて読んでほしい。
やりたいことがない、毎日が楽しくない
毎日同じルーティーンの繰り返し。そんな代わり映えのない刺激を感じられない毎日に、ふと虚しさを感じることがあるだろう。
しかし、そのなんでもない日常にこそ、人生の悟りを得る機会がひそんでいると、宗教哲学者の道元は言っている。
些事、雑事、凡事にこそ、悟りに至る修行なのであると。
道元は、座禅に打ち込むことや高層の言葉や仏典を学ぶことを修行とばかり思いこんでいたが、果たして本当にそうなのだろうかと疑う。
それだけでなく、今なすべきことを無心で行う、日常の行為一つ一つが修行であり、坐禅と同じ意味を持つことを解したのだ。
例えば歯磨き。
ブラッシングに集中していると、自分の歯ブラシが磨く対象である歯と同調して自分と対象の境界線が解け合わさるような感覚がある。
自分のことを考えるのがどこかに言ってしまうような「自意識が小さくなる」効果がある。
掃除、炊事、トイレ、歯を磨くこと、これらの日常の些細な行為すべてが坐禅(=自分を忘れること)と同じ効果をもたらしてくれるのだ。
生きる喜びというのは、自分を忘れてモノゴト一つ一つに意識を向けて集中することで感じられるものなのだ。
孤独を感じる
孤独を感じる。誰からも必要とされていないと感じる。
スマホをいじっても気休めにしかならない。
自分がこのまま死んでも、誰も気づかないのではないだろうか。
そういった孤独の悩みは多くの人が抱いている身近な悩みだ。
この問題に対して答えを示しているのは、哲学者ショーペンハウアーだ。
彼はこう言っている。
「孤独に耐えられない、寂しいからといって、他人と一緒にいたってろくなことがない」。
確かに、孤独が辛くて人と話そうとしても、その相手は自分と価値観も環境も性格も違う、他人だ。
そんな他人と話した所で、噛み合わないことはある。
だからといってお互いに気を遣って折り合いをつけようとしても、それは本来の自分らしさを犠牲にしていることにはならないか?
そこまでして他人といっしょにいたいのか?それで本当に孤独を紛らわせることができるのか?
それでも私たち人間は群れたがる。
孤独を嫌がり、自分を捨ててまで社交に向かう「群居本能」を避けがたく抱えている。
どうしてかというと、「自分がないから」。
自分の内面が貧困だから。断片的な中身しかもたないから。そうショーペンハウアーはバッサリと切り捨てる。
人間が孤独をつらいと感じる理由は「人間の内面的な空虚さと貧困さ」ゆえであり、
「自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる」のだと。
幸福の基本は、自分の外に何者も期待せず、自分のうちにあるもので楽しむことである。
そう断言している。
コレに関しては、私も友達がおらず現在進行形で一人ぼっちな人間なので、「自分のうちにあるもので楽しむ」という点は、非常に大切な姿勢であることだと思った。
寂しさにかられて群れたがるのもわかるが、その衝動を上手くコントロールして、自分の内面を深く耕すことをよしとすべきではないだろうか。
自分の持てる興味を遊ばせながら、孤独を愉しむ。自分ひとりでしか出来ないことに没頭することで、私たちは孤独の時間を有意義に過ごすことができる。
そんな時間が自分の内面を豊かにしてくれるのだ。
まとめ:哲学は現代でも通ずる普遍的な学びがある
以上、私が個人的に気に入った部分を抽出して要約してきた。
正直、「この哲学者の考え極端すぎるだろ!しかも全然一貫性ないし!」と納得できない部分もあった。
しかし、何百年前であろうと、現代でも私たちが抱える苦しみや悩みは普遍的なものであり、そこで昔からその悩みについて感が続けた哲学者から学べることは非常に多い。
この本は、とっつきにくそうな学問である哲学をテーマにした本だ。
知識が0の私でもスラスラ読めたので、興味のある方は一度手に取ってみてはいかがだろうか。
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