「考える」という行為の仕組みを細かく言語化してみた。

生活改善

何かをあれこれ頭の中で考えることはわたしの昔からのクセである。

「なんで俺たちは生きているんだろう。」「家族って何のために存在しているのだろう。」とか、答えのあるないに関わらず、ぼんやりと考えるのは今でもある。

しかし、ここで気になったのが、考えるってどういうことだ?という疑問。

いつもぼーっと考えているけど、そのときに頭では何が起こっているのか。

何のために考えているのか。

ということで、今回の記事では「考える」という行為を細かく分析していこうと思う。

起点は「疑問」

まず、私たちはどんなときに考えるだろうか。何もキッカケがないのに考え始めることは少ないだろう。

必ず考える起点があるはずだ。

その起点というのが、「疑問を持った時」である。

なにか納得がいかないことがあったり、どうしても気になる事があったり。

そんな時、考え始める。

というのも、私達が現実で生きている以上、自分がすべて満足行くような世界になることはないのだ。

仮に、わたしたちの望み通りで、何もしなくても好きなことができ、好きなものが食べれるような世界だったら、私達はどうなるのだろうか。

おそらく、その世界では考えるという行為は必要ないだろう。

自分の状態に満足しているため、疑問を持つこともなく、モヤモヤしたり、嫌な思いをすることもないからだ。

つまり、考える力というのは、この不完全で未知なこの現実でこそ必要なスキルなのだ。

今回の記事では、そんな私達が無意識にしている「考える」という行為について、私なりに紐解いていこうと思う。

知識を掘り出す

さあ、考えることのスタートが疑問であるならば、その次に始まるのはなにか。

ここでは、考えることのステップと、その目的に焦点を当てていく。

まず、考えることのステップは以下の通り。

掘り出し→組み立て→推測→検証

である。

まず、最初の掘り出しについて。

これは、考えるテーマに関する、自分の頭にある知識や経験をかき集めることである。

例えば、毒親について考えるならば、自分の頭の中にある「幼少期に母親に殴られた。」「父親が自分の意見をまともに聞いてくれなかった」という、直接的に経験したこと。

そして、本やSNSなどで得たメディアからの間接的な知識。

この2つをもとに、次は組み立てる。

具体的に何を組み立てるのかというと、自分の抱えている疑問の解決に必要(だと思う)なものを、筋道を立てて論理を構築していくのだ。

例えば、「なぜテーブルの上にりんごがおいてあるのだろう。」という疑問に対して、

「祖父がりんご好き」「さっき母は買い物に行っていた」「冷蔵庫の中にりんごはない」などの知識があれば、これらを組み立てて

「祖父はりんごが好きでいつも食べている。しかしりんごがなくなったので母が買い物に行って帰ってきて、テーブルの上にりんごを置いた」という推論が成り立つ。

もちろん、この推論が必ずしも正しいとは限らない。

最も重要なのは”組み立て”

考える過程には、掘り出し→組み立て→推測→検証の4つがあるといった。

この中で最も重要なスキルは何だろうか。

それは、組み立てである。

掘り出しの作業は、知識量が多ければはかどるのかもしれないが、考える作業にさほど知識の多さというのは必要ないと私は考える。

それよりも大事なのは、今まで自分が蓄積してきた知識や経験が、今目の前にある疑問に対してどう活用できるかということを見つけられる力。

私は、この”組み立て力”こそが、考える力の肝であり、頭の良い人の共通点だとも思う。

他人ではなく”自分ベース”

考えるときは常に自分がベースになっている。

なぜなら、見えている視界は自分のものだし、脳みその中も自分にしかわからないし、完璧に他人の目線で考えることは不可能だ。

これについてはカントの純粋理性批判についての記事でも似たようなことを書いているので、興味のある方は読んでほしい。

自分ベースで考えていることを念頭に置きつつ、他人から見たらどう対処するかという別角度からも見ることができると、より良い解決法が見つかるかもしれない。

なにか疑問や問題をっ見つけたら、一つの視点だけでなく、多角的に捉えることが重要である。

頭の中だけで終わらせない

考えるという行為は頭の中だけで行われるものだ。

しかし、なんのために考えるかというと、「実世界で起きている疑問や問題を解決したい」と思っているからだろう。

ならば、頭の中で立てた推論をもとに、次は行動に移さなければならない。

実はこれが一番難しい。

実世界というのは我々の思う通りに動いてはくれないからだ。

前触れもなく雨が降ったり地震が起きたり。パニック障害の私であれば、発作的に過呼吸になったり。

頭の中でシミュレーションした通りにいかないのが現実。

そのため、考える力を育てるには、試行回数を増やすしかない。

掘り出し(知識)、組み立て、推測、検証(行動)。このサイクルを回していき、悪いところがあれば改善し、新たな疑問が見つかれば、それについてまた”考える”。

これが、わたしの考える、”考える力”の定義と育て方である。

ここまで書いてきたが、私は自分が考える力のある人間だとも思わないし、特別頭がいい人間ではないということはご理解いただきたい。

考えるという行為について言語化してみたかったのでこの記事を書いた。

少しでも面白いと感じてくれたら嬉しい。

それでは。

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