【雑談】怠惰な生活…。不確定な未来に対する心構えとは…?

人生論

ここ最近、無気力で怠惰な日々が続いていて、ブログのネタもインプットしてないし書くこともないので、どうでもいい雑談記事を透過していきたいと思う。

ただの自己満オナニー記事なので、私自身に興味のある変な読者は読んでいただきたい。

怠惰

悪く言えば怠惰な生活、良く言えば体を休めている生活。

一人暮らしだから、洗い物や洗濯やゴミ出しなど、最低限の家事はこなすが、それ以外は何もしない。と言うかしたくもない。

何をしててもつまらないし、「これをしたところで私の未来にプラスの希望はない」という考えが常にある。

だから明日を信じて睡眠を取ることもできない。睡眠を取れるということは「明日に備える」ということ。

「明日に備える」ということは、「明日、希望を持って生きることができる」ということ。

明日に対して何も希望のない人間は、「明日なんて来なくていい」と思っているので、寝ようにも寝れない。

そう考えると、睡眠が取れているかどうかで、自分の精神状態がよく分かる。

「明日も早いから寝るか」と言って寝れる人は、健康な人。

明日に希望を持てず、ボーっとしながら夜遅くまでスマホをいじり、死んだように眠る人が、不健康な人。

私は後者である。

恋人を失うことがこんなにもつらいとは。

愛する人がいるだけで、あんなにも日常が輝いて見えたとは。

失って初めて気づいた。

私は旅をしたい。といっても「日本全国を回る」ということではなく、もっと広義的な意味での旅である。

それは人生における様々な経験。

やったことのない趣味を始めたり、会ったことのない人と会ったり、行ったことのない場所に行ってみたり。

このような外部の世界を旅してみたいと思うのだ。

これまでの人生、私は自分の内面に閉じこもって生きてきた。

とにかく人が怖くて、外に出るとパニック発作が起こるため、外出もしたがらず(今もそうだが)。

物事を自分一人で完結しようとし、何をするにも自分本位。

外の世界に対して干渉しないようにしていたのだ。

それは外界に対する恐怖からでもあり、無関心からでもある。

しかし、それではダメだ。自分が楽しい人生を作っていく上でマイナスでしかない。

かの哲学者ラッセルが「幸福論」にて、自分自身への関心を薄め、外界への興味を増進していくことを勧めていたように、人生を幸福に生きる上で不可欠な要素が「外界に対する興味」なのだ。

不確定な未来に対する心構え

とは言っても、私達には拭いきれない不安がある。

それは「不確定な未来に対する不安」である。

当たり前のことだが、未来に起こることなんてわからない。

すべてが不確定だ。

例えば今、私は深夜3時にPCで文章を書いているが、

インターホンが鳴ってドアを開けると、雨でびしょ濡れになった美女が「今夜ここで泊めてもらえませんか?」と訪ねてきて、同じ部屋で同じ時間をともにすることで、明日には私は彼女ができるかもしれない。

また、その彼女に殺されて、明日には私はもうこの世にはいないかもしれない。

そう考えると、未来に対して何かを備えるというのは、至極バカバカしい行為だとは思わないだろうか。

将来のために備えるという考えを否定するつもりはない。

戦争がおきそうだから海外逃亡の準備をしておく。将来この会社に就職したいからこの資格を取っておく。

合理的にも思えるが、未来が不確定だという事実があるからこそ、

今の自分の限りある体力と時間を使って、不確定な未来に向かって何かをするという気になれない。

それが心からワクワクすることで、自分の中で納得したことならいいだろう。

しかし、「とりあえずこの勉強はしておいたほうがいいだろう」「よくわからないけどとりあえずこの準備はしておこう」みたいな、ビジョンがない行動は、していて意味があるのかと甚だ疑問に感じるのだ。

少し自分語りをさせてほしい。

私は今まで親の言う通りで、なんとなく、思考停止で生きてきた。

大学に入ったのも、「一人暮らしがしたい」「親から離れたい」という思いだけで入ったし、具体的な未来に対するビジョンもなければ、自分の中で心から納得したわけでもない。

私がワクワクすること。

この文章を書いているのは、誰の意志も介入していない。

私自身の意志で書いているという自負がある(自由意志は存在しないなどの反論はお断り)。

このような自分の意志で決める回数を、これからの人生で増やしていくことが、幸福への道だと考える。

進路決定一つとっても、「この会社は世間での評判が良い」「親から褒めてもらえる」などの理由で決めるのではなく、「ここで仕事をしている自分は成長できる」「心からワクワクする仕事ができる気がする」というビジョンと意志を持って決断するということをしていくべきだと思うのだ。

不確定な未来に対して、自分の意志で決断することを増やしていけば、後悔したり、未来に対して不安を持つことも減ることだろう。

敬意、感謝

腐りきった人間はこの世にごまんといる。

自分の中の空虚さを埋めようと、他者を攻撃することでかまってもらおうとする人。

プライドの高さから自分の過ちを認めず、同じ過ちを繰り返す人。

このようなクズで醜い人間というのは多く存在する。

では、そのような腐った人間にならないために必要な要素は何か。

それは「敬意と感謝」であると私は考える。

敬意というのは、「自分以外の人間は、自分に持っていない良さや強みがある」ということをしっかり認識していること。

感謝というのは、「施されたならば、それに対して『ありがたい』と心から思う」ということ。

この2つのどちらかが欠けてしまうと、人間として腐り始めるのだと思う。

正直に言おう。私はこの2つが本当に欠けていた。というか、忘れていた。

自分の人生において「敬意と感謝」は忘れないで生きようと思っていた。しかし、相手を軽んじ、傷つけるような発言をしたことがあったのだ。

その時の私は、表情は暗く、何をしていても楽しくない、クズの極みのような人間だった。

どれだけ高い能力を持っていても、敬意と感謝がなくなるだけで、人間性はすべて帳消しになる。

人と関わるべきではないとき

自分の精神状態が健康でないとき、すなわち制御が効かない状態である時は、絶対に誰かと関わるべきではないと思う。

「だれか心を許せる人に吐き出すことで、楽になることもある」という考えも分からなくはないが、相手が傷つくリスクがあまりにも高い。

ならばどうやって回復したらいいのかと言うと、それに必要なのは「健康」と「趣味」である。

まず「健康」のためには、規則的かつ栄養のある食事を摂る。そして趣味に関しては、「できるだけ一人で完結する且つ、心から楽しめるものである」ということ。

趣味に関しては詳しく別の記事でも書いてあるので、ここでは少しだけ触れておく。

”できるだけ”一人で完結するというのは、「極度に人と関わらない趣味」ということ。

SNSで軽く趣味の交流をするならいいが、過度に人との交流に依存する趣味はNG(例えばビデオ通話とか、オンラインサロンなどのコミュニティサービスなど)。

かつ、心から楽しめる、没頭できることが条件。

健康と趣味によって、心は満たされる。しかし決して簡単なことではない。なんなら私は今現在、健康と趣味を良くしようと励んでいるが、なかなかできずに苦しんでいる。

しかし、自分の行動の方針や心構えを持っておくだけでも違うだろう。

進捗は追ってまた記事にしようかな。

それでは。お腹が空いたのでここらで終わる。

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